アルコール依存症 〜彼の遺したメッセージ〜 2

自分のお酒の問題も浮き彫りになり、AC自助グループ
仲間の言葉で行けなくなった

あれは埼玉での年に1度の全国から集まるグループでのこと
仲間も大阪でのグループを守るために私に正直に関わってくれた

ACグループにおいて本人(アルコール依存症者)の問題の話は
アルコールよって身内より虐待を受け、傷ついた人にとって
害になると言うこと

その事を告げたれた時は、自分がアルコール依存症者になったと
事実を突きつけられたようで打ちのめされた
 

そうこうするうちに病院にも足が向かなくなった
それから数年して育児計画のもと、娘を授かった

 
会社も辞めたが育児も初めて
パパの実家は奈良
義母も仕事をしているし、いつでも助けてもらえる距離ではない

赤ん坊は夜泣きはあまり無かったが、授乳では起きないといけない
元々眠りの浅かった私は不眠症になり
ますます酒を煽るようになった

そうするとますますクリニックに行けなくなった
アルコール依存症です」
と診断されるのを恐れて…。

何が何でもあの頃は母と同じ病気になるわけにはいかなかった

自分が恨んでいた母の病気
病気と解っていても側にいれば、解らなくなる
そんな自分自身を許せないことをわざわざ告げられる
そんな場所へは生きるために行けなかった

 
そして精神保健相談員の方にまた違う心療内科を紹介してもらうことになる

それから私の抗鬱剤、睡眠剤への依存は始まった
もともと共依存症という病名こそはないが依存傾向にある家族病患者
しかもそこは通常のクリニックなのでアディクションは専門外
先生は優しかったが主に薬物治療に搾られていった
 
家の購入計画の失敗や、住み慣れた土地からの引越し
そして激鬱への転落をたどるパパの転職問題
大量服薬による自殺未遂…。

たった3年前のこと

結局、薬物に問題があることを認め、元のアルコールのクリニック出戻った

激鬱の中、幼い娘を連れてふらふら通ったこともあった
会社の方の義母に数ヶ月娘を預けてひとり寂しく通ったこともあった

それから自助Gで知り合った仲間に勧められ
先生の反対を押し切って、横浜の施設で3ヶ月
(先生は因縁あってこの施設が嫌い)
断薬を目指しカウンセリングやグループ活動といった生活を送った

あまりに過酷で鬱の只中にいた私は泣いてばかりいた

(続く)