自分の感覚 2

(続き)

今までにも

『私はまだまだもらってない!』

って感覚があって言葉にもしてきた。

それもまた当然だったんだなぁと。

私はまだまだ幼児なんだな。

見かけは50前のオバサンでも。

40前でなく50前ってのはこないだ仲間に、そのくらいの仲間と同い年くらいと思われてたからね。

幼稚だとか、あれこれ自分でも把握もなんとかしてるからこそ

情けなくもなるし、また頑張らなきゃと思ってた。

だけどこの夏はそれを放棄した。

ミーティングを放棄した。

カウンセリングはもう愚痴吐きだから。

だけど自分の欲するものに正直になってたんだな。

正直になれてたんだわ。

多分、仲間の間でその能力を少しもらってたんだよね。

まだまだ完全に休養することが出来ないのは家族のせいにしてるけど

違うのもわかってる。

自分が赦してないからだ。

だけどやっぱり、私には休養は必要なんだよな。

鬱よりももっと無味乾燥な感じ。

枯渇してる感じがする。

感情を動かすことも放棄したから、ひょんなことでツボに入らない限りは泣かないでもいられるが

その変わり楽しいとか嬉しいって感情も放棄したんで。

そうでもしないと、昔みたいに何でもかんでも感じてたら身が持たない。

仕事なんか行けなくなるし。

今も割合、わかって嬉しいって感情もありながら、あんまり動かしてもいない。

また暴走するのもしんどいから。

だからこうやってつらつら書ける。

殴り書きならもっと言葉遣いは汚いし。


私の中ではやっぱり、あれもこれも過去にはなってない。

ワーカーも言ってたが、記憶に留まり易いのは感情が強く伴った事柄。

だから悔しい、悲しい、淋しいには過剰反応して30年前の出来事だろうが今になる。

(続く)